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2006年4月20日 (木)

小学校「英語必修」反対!

小学校の「英語必修」には、右は民族主義の石原慎太郎都知事から、左(?)は国際派の評論家・加藤周一氏(『朝日新聞』2006年4月20日付夕刊10面「夕陽妄語」)まで幅広い、明確な反対論がある。森田も、もうひとつの観点から「英語必修」に反対だ。

学校の教師にはこどもたちに基礎学力をしっかり身につけること、父母や地域社会としっかりコミュニケーションを図って、次世代をしっかり育てるという重要な役割があるにもかかわらず、現状ではそれが十分に果たされていない。

森田は、そのための処方箋の一つとして、スポーツや音楽、美術などの文化活動についても思い切って地域社会の潜在力の活用を図ることを重視し、教師は本業にもっと集中させるべきだと思っている。これ以上、やったこともない「英語教育」に取り組ませることで教師を忙しくさせてどうするのかと思うのだ。

しかも、テレビのワイドショーで小学校英語授業の先進(?)地域のレポートを見た家人によれば、とても十分な成果を上げる見通しの持てるものではなかったそうだ。

どの小学生も、たとえお金持ちでなくとも外国語を学ぶ機会が開かれているというのはいいことだ。学校、PTA、地域NPOが協力して、放課後の教室に今日本のどの地域にも増えたネイティブに講師を頼んで在校児童を対象としたものや地域住民を対象にした外国語教室を開くという方向が良いのではないか。

いつも言うことだが、「英語」ばっかりというのもダメ。19世紀はイギリスの世紀、20世紀はアメリカの世紀だったけれども、21世紀は中国の世紀かもしれず、日本の長期的な国家戦略を考えれば、英語以外の外国語に触れ、学ぶ機会の充実を図ることも大事だと思う。大人にとっても、韓国語に親しみ隣国に友人をつくるとか、イタリア語に親しみオペラを楽しむとか、「英語、英語」「ビジネス、ビジネス」というのでない行き方は心の豊かさにとって大いにプラスであると思う。

【以下は、加藤周一氏の『朝日』寄稿の全文です】

(夕陽妄語)悲しいカタカナ語 加藤周一

 今ここで「カタカナ語」というのは、主として英米語からの借用語で、カタカナ表記して日本語文のなかに混ぜて用いる言葉である。
 たとえば、「百貨店の地下の食品売り場」という代わりに「デパチカのフードコーナー」という。ここで「チカ(地下)」と助辞「の」以外はすべて借用語で、本来の日本語ではない。借用語の元は英米語だろうが、それをカタカナで表記し、その読みに従えば、もはやほとんど原語の音(発音とアクセント)をとどめない。「コーナー」の場合には意味も違う。売り場は広大だから英米語で「corner」とは言わない。カタカナ語の「コーナー」は「センター」と相互交換的だが、英米語ではそうではないからだ。「デパチカのフードコーナー」という発語(または表記)は日本語でもなく、英米語でもない。
   *
 私がそれを理解できるのは、私が日本語や英語を知っているからではなくて、カタカナ語をいくらか知っているからである。しかもカタカナ語では二つの単語を分かち書きしない。句読点の用法にほとんど規則がない。さらにカタカナ語の知識が限られていれば、そもそも文章の意味を測りかねることも少なくない。
 「ゴールデンウイークプラン 夕朝食バイキング」はわかるが、「サンバレーにフォレスト・ヴィラ アクア・ヴィーナスにアネックスツイン」は何のことか私には見当がつかない。これは最近日刊新聞の広告らんに見たものである。すなわちカタカナ語は、実際に日本で義務教育を受けた人間の間のコミュニケーションにビッグなオブスタクル(カタカナ語の名詞には英語とちがって普通複数がない)をつくりだす。日本語で喋(しゃべ)ったり、書いたりすれば、誰にも即座にわかる話を、わざわざカタカナ語を多用してわかりにくくするのはなぜだろうか。
 もちろん政治向きの話では、一般国民にわかりにくい発言が便利なこともある。たとえば一方で「非核三原則」を堅持する日本国が、CTBTを破り、NPTを脅かす他国の行動を支持するという。その矛盾は、CTBTやNPTという外国語の略称を知らないかぎりはっきりしない。はっきりしない方が政府にとって都合のよいことも実に多いのである。
 学者の中には、「いや、それは特殊な場合にすぎない」という人がある。「一般に借用語を多く導入するのは、その言語に活力がある証拠で、むしろめでたい。現に日本語は中国語から多くの語を輸入してその表現力を豊かにしてきたではないか」という論議である。しかし、昔の日本人は借用語によって日本語の語彙(ごい)を拡大してきたので、日本語で言えることを借用語で表現して話をわかりにくくしてきたのではない。学者の議論には安易な言語学的ポピュリズムの臭気がある。
   *
 ざっとそういうことを考えながら暮らしていると、最近文部科学省に英語教育を小学校の必修科目にしようという動きがあることを知り、その動きに対する石原都知事の批判を知った。石原氏の批判の内容は、「人間の感性や情念を培うのは国語力だ」として、ろくに自国の言葉を知らぬ人間が外国の文化を吸収できるはずがない、若い人の国語力が低下しているとき、小学校から英語を教えるのは、全くバカげている、ということらしい(「朝日新聞」、〇六・四・八)。
 私は大すじにおいて知事の考えに賛成する。日本全国の小学生に英語の学習を強制すれば(一週一時間か二時間の授業の)、日本国民が、英語を話すようにはならず、カタカナ語を今よりもっと多用するようになるだろう、と思う。これより先、石原氏はフランス語について、フランス語では数を数えられぬといい、今回は英語について英文法はいいかげんなものだという意味のことを語ったらしい。それはどちらも誤りだが、その理由を説明するまでもないだろう。しかしそのことは、小学校において何よりも日本語力を養うべしという意見の当否と直接には関係しない。
 小学校での英語教育を思いついた人たちは、外国語教育は早く始めた方がよいと考えたのであろう。日本の子供を英語国の小学校に入れれば、忽(たちま)ち英語を流暢(りゅうちょう)に話すようになる。その国に赴任した両親よりもはるかに短い期間に、はるかに正確に英語を話す。
 しかしその場合と、日本の小学校の「英語の時間」とは、条件が全くちがう。日本では学校の「英語の時間」の外部の環境において――学校でも、家庭でも、社会でも、TVでも――、子供の生活は英語を必要としない。したがってそれを習う自覚的動機は弱い。しかるによほど強い動機がなければ、――その強い動機が突然英語国の小学校に入れられた子供にはある――、日本語から英語へなめらかに移行するなどという芸当が少しでもできるはずはない。
 しかし例外を以(もっ)て原則とすることはできない。あえて強制すれば、出口は日本語でも英語でもない、コミュニケーションの手段としてきわめて不便なカタカナ語にもとめる他はなくなるだろう。
   *
 カタカナ語はカッコがよいのではない。英語の強制が生みだす挫折のはけ口であり、うらぶれた、悲しい楽園幻想の結果である。国際化、または国際協調の幻想。現実には自国民相互のコミュニケーションの障害、そしてもちろん感性の質の低下……。(評論家)

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コメント

私は1歳と3歳の子を持つ者です。
子供たちの教育については、常日頃より悩んでおります。

件の英語必修化については、私も反対しております。
「ゆとり教育」に続き文科省は日本の子供たちの教育を
いったいどうしたいと考えているのでしょうか?
「ゆとり」やら「英語」やらを支持する人たちに聞きたいのは
それ以前の教育を受けて、大人になったあなたたちは
そんなにダメな大人ですか?
日本は、そんな教育のせいでそんなにひどくなっていますか?
ということです。

みなさんそんなに自分たちの受けてきた教育に
自信がないのでしょうか?

漢字の書き取りや計算ドリルなど
基礎的な事を時間をかけて繰り返し学習する事の大切さをわかってほしい。
昨今は理科の実験の時間が取れず、理科離れが進んでいるとも聞きます。
こういった時間をとることが、真の「ゆとり教育」なのではないかと私は思います。

投稿: rinpo | 2006年5月10日 (水) 01時13分

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