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2009年5月 4日 (月)

映画「メトロポリス」(1927年) 感想

1927年といえば昭和2年。芥川龍之介が死去したり、田中義一内閣が成立したりといった頃に、ワイマール時代のドイツで作られたモノクロの無声映画だ。息子が大学の授業で「なぜマリアは女性でなければならなかったか」という教授の問いかけに対する答えを探すために借りてきたVHSテープ。

たいへん興味深く見た。群衆シーンなど、それでも経費節約のために実際よりも多く見せる工夫があるというが、最近の特撮ものよりうんと人の数のヴォリューム感のあるもので、また複数の労働者たちが機械に向かう様子などもリズミカルで設計された動きであり、ヒップホップのようでもあるし、バレエ化も可能な作品ではないかとさえ思った。

ここでも忍耐と平和を説く清純なマリアと、陰謀により労働者のたちのところに送られるマリアとうり二つに作られたアンドロイドの下品な性悪ぶりを一人の女優が無声映画時代特有のオーバーアクションとはいえ、見事に演じ分けているのが印象的。最近、映画を見るたびに「ダークサイド」ということばが思い浮かぶ。

資本家階級と労働者階級は、資本家階級の譲歩と労働者階級の忍耐によって協調が可能というメッセージを、当時の革命機運に冷水を浴びせるものと見るか、理想主義と見るかは意見が分かれるかも知れないが、二つの階級が手を取り合うには仲介者の役割を果たす人物が必要で、そこにジークフリートのように現実に気づき、父に自制を促す「資本家の息子」が登場し、心ひかれた労働者の娘・マリアと協力して状況に立ち向かうといったところはお約束と言えばお約束、普遍性のあるストーリーといえばその通り。

しかし、土地バブルに踊った80年代半ばから90年代はじめ、また米英が作り出した世界金融バブルによってなんとなく救われていた小泉・竹中時代なら、この映画のメッセージは「資本対労働という時代じゃないよね」と切り捨てられただろうが、リーマンショック後のいま現実に起こっていることは、この映画の現代性を印象づけることばかりだというのも何か皮肉な感じがする。

どうすれば強欲な人々に自制と負担を受け入れさせ、全体のシステムをもう少し落ち着いた、持続可能なものとして運営していくのか。労働運動の現状や、何でも自分個人のせいにしてしまい、政治や行政、あるいは資産家や企業の責任を問うことの少ない若い人々を思い浮かべると「力を持つが責任を果たしていない人々」をどのように動かしたら良いのだろうか。この映画を見て、またそんなことを考えさせられた。

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