まちづくり・景観・観光

2008年1月 8日 (火)

行方不明となっていた岩田和輝君は、1月8日に無事発見保護

資料を片付けながら「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」という映画の放送録画を見る。ナチスの追及と死の恐怖にたじろがず、聡明な理性と優しい心に生き、状況に立ち向かい処刑された女子学生に、心から敬意を抱いた。

それに比べ、自分はなんと呑気な暮らしぶりと反省していたところに、横浜で行方不明になっていた、発達障害の少年が無事保護されたという嬉しいニュースがあった。

人ごととは思えず、でも何もできない自分にいらだちを感じてもいたが、他方、発達障害に関わる方々がメーリングリストなどで呼びかけ合う様子、あるいは朝のテレビのワイドショーで「発達障害」について情報をかみ砕いて説明しながら、視聴者に心から協力を呼びかけているように感じられたレポーターの様子などに、心ある人々が、ゆるやかにでも力を合わせようという空気が感じられ、「まだ日本も捨てたものではない」などと思った。

よい一年のスタートが切れたような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月19日 (金)

亀戸天神の二株の藤

NHKハイビジョン特集「日本 庭の物語 -江戸大名庭園から未来の庭へ-」を見ていたら、亀戸天神の美事な「藤」は、先の大戦の空襲でいったんは全て焼け落ちてしまったけれども、奇跡的に二株だけが芽を出し、現在の姿に復活した。庭園としてのデザインも広重の「江戸名所図絵」そのままだが、藤も江戸時代のものであるといった話しを紹介していた。

それだけのことと言えばそれだけのことだが、なんだか良い話しだと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月28日 (水)

「日本・中国・韓国」犯罪グループによる誘拐事件のニュースに、外国語教育の方向性を考える

女性誘拐犯が「日中韓」グループだったというニュースを聞いて、そういう時代かなと思った。徳川時代の鎖国、冷戦など一時の歴史的な条件が隔てていた日中韓は近くて近い国になってきた。

こんどのような事件に接して考えるべきことは「中国人や韓国人はできるだけ入国させるな」「犯罪予備軍として警戒しろ」といった、中国人や韓国人を遠ざける方策ではないと思う。

犯罪グループだってこんなに協力できるのだから、文化・学術や経済産業、政治・行政などあらゆる分野で協力の潜在的可能性は大きいと考えるべきだ。同じ東アジアの文化的な伝統の上に立ち、しかし全く個性の異なる文化の出会いは新しい創造の源泉となり得る。

犯罪抑止という面だけについて言っても、例えば捜査当局全体の「中国語」「韓国語」の能力の水準を高めるといったことが効果的だろう。

しかし、それらのことをとってつけたように実現することはできない。国策として、外国語教育における英語一辺倒を改め、第二外国語として中国語や韓国語を学べる機会を飛躍的に充実すべきである。小学生に英語を教える「特区」があるそうだが、第一外国語が「韓国語」「中国語」「ロシア語」という市町村があってもいいと思う。その場合、第二外国語として英語を学べる機会の充実が必要であることは言うまでもないが。

日本はアメリカの植民地ではないのだから、外国語教育のあり方について、もっと国益を真剣に考えた構想を持つべきである。そうしたことが日本の「国際化」の本当の意味での出発点になるだろう。

ピンは「日中韓のコラボレーションの未来」のため、キリは「不心得な中国人や韓国人の犯罪から子どもたちを守るため」、日本人の中国語力、韓国語力を飛躍的に向上させるべきだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月26日 (水)

中国からの「沖縄観光」の可能性

中国の王毅大使が沖縄で「中国から海外に出る観光客は一年に3200万人、その1パーセントの32万人を誘致できれば、現在沖縄を訪れる外国人観光客13万人をはるかに上回る」(『沖縄タイムス』2006年4月24日、他に『琉球新報』当日付)と述べたそうだ。

面白いスピーチだと思う。中国は内陸部分が広く、沿岸も北の方はリゾートといった気候ではない。距離の近い外国、また日本有数の観光資源に恵まれる沖縄の「中国からの観光」の潜在市場は大きいだろう。

沖縄県が、県立博物館の展示用に故宮博物院収蔵の琉球王朝由来の品々の貸し出しを希望しているように近代以前の交流の歴史もある。もちろん「遠景」として安全保障といったことも大使の念頭にはあるだろうが、沖縄にとっても観光振興は大いにメリットのある話しだ。訪れた中国人に少しでも「日本」の印象が良くなれば、大きな意味での安全保障にもつながる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月20日 (木)

小学校「英語必修」反対!

小学校の「英語必修」には、右は民族主義の石原慎太郎都知事から、左(?)は国際派の評論家・加藤周一氏(『朝日新聞』2006年4月20日付夕刊10面「夕陽妄語」)まで幅広い、明確な反対論がある。森田も、もうひとつの観点から「英語必修」に反対だ。

学校の教師にはこどもたちに基礎学力をしっかり身につけること、父母や地域社会としっかりコミュニケーションを図って、次世代をしっかり育てるという重要な役割があるにもかかわらず、現状ではそれが十分に果たされていない。

森田は、そのための処方箋の一つとして、スポーツや音楽、美術などの文化活動についても思い切って地域社会の潜在力の活用を図ることを重視し、教師は本業にもっと集中させるべきだと思っている。これ以上、やったこともない「英語教育」に取り組ませることで教師を忙しくさせてどうするのかと思うのだ。

しかも、テレビのワイドショーで小学校英語授業の先進(?)地域のレポートを見た家人によれば、とても十分な成果を上げる見通しの持てるものではなかったそうだ。

どの小学生も、たとえお金持ちでなくとも外国語を学ぶ機会が開かれているというのはいいことだ。学校、PTA、地域NPOが協力して、放課後の教室に今日本のどの地域にも増えたネイティブに講師を頼んで在校児童を対象としたものや地域住民を対象にした外国語教室を開くという方向が良いのではないか。

いつも言うことだが、「英語」ばっかりというのもダメ。19世紀はイギリスの世紀、20世紀はアメリカの世紀だったけれども、21世紀は中国の世紀かもしれず、日本の長期的な国家戦略を考えれば、英語以外の外国語に触れ、学ぶ機会の充実を図ることも大事だと思う。大人にとっても、韓国語に親しみ隣国に友人をつくるとか、イタリア語に親しみオペラを楽しむとか、「英語、英語」「ビジネス、ビジネス」というのでない行き方は心の豊かさにとって大いにプラスであると思う。

【以下は、加藤周一氏の『朝日』寄稿の全文です】

(夕陽妄語)悲しいカタカナ語 加藤周一

 今ここで「カタカナ語」というのは、主として英米語からの借用語で、カタカナ表記して日本語文のなかに混ぜて用いる言葉である。
 たとえば、「百貨店の地下の食品売り場」という代わりに「デパチカのフードコーナー」という。ここで「チカ(地下)」と助辞「の」以外はすべて借用語で、本来の日本語ではない。借用語の元は英米語だろうが、それをカタカナで表記し、その読みに従えば、もはやほとんど原語の音(発音とアクセント)をとどめない。「コーナー」の場合には意味も違う。売り場は広大だから英米語で「corner」とは言わない。カタカナ語の「コーナー」は「センター」と相互交換的だが、英米語ではそうではないからだ。「デパチカのフードコーナー」という発語(または表記)は日本語でもなく、英米語でもない。
   *
 私がそれを理解できるのは、私が日本語や英語を知っているからではなくて、カタカナ語をいくらか知っているからである。しかもカタカナ語では二つの単語を分かち書きしない。句読点の用法にほとんど規則がない。さらにカタカナ語の知識が限られていれば、そもそも文章の意味を測りかねることも少なくない。
 「ゴールデンウイークプラン 夕朝食バイキング」はわかるが、「サンバレーにフォレスト・ヴィラ アクア・ヴィーナスにアネックスツイン」は何のことか私には見当がつかない。これは最近日刊新聞の広告らんに見たものである。すなわちカタカナ語は、実際に日本で義務教育を受けた人間の間のコミュニケーションにビッグなオブスタクル(カタカナ語の名詞には英語とちがって普通複数がない)をつくりだす。日本語で喋(しゃべ)ったり、書いたりすれば、誰にも即座にわかる話を、わざわざカタカナ語を多用してわかりにくくするのはなぜだろうか。
 もちろん政治向きの話では、一般国民にわかりにくい発言が便利なこともある。たとえば一方で「非核三原則」を堅持する日本国が、CTBTを破り、NPTを脅かす他国の行動を支持するという。その矛盾は、CTBTやNPTという外国語の略称を知らないかぎりはっきりしない。はっきりしない方が政府にとって都合のよいことも実に多いのである。
 学者の中には、「いや、それは特殊な場合にすぎない」という人がある。「一般に借用語を多く導入するのは、その言語に活力がある証拠で、むしろめでたい。現に日本語は中国語から多くの語を輸入してその表現力を豊かにしてきたではないか」という論議である。しかし、昔の日本人は借用語によって日本語の語彙(ごい)を拡大してきたので、日本語で言えることを借用語で表現して話をわかりにくくしてきたのではない。学者の議論には安易な言語学的ポピュリズムの臭気がある。
   *
 ざっとそういうことを考えながら暮らしていると、最近文部科学省に英語教育を小学校の必修科目にしようという動きがあることを知り、その動きに対する石原都知事の批判を知った。石原氏の批判の内容は、「人間の感性や情念を培うのは国語力だ」として、ろくに自国の言葉を知らぬ人間が外国の文化を吸収できるはずがない、若い人の国語力が低下しているとき、小学校から英語を教えるのは、全くバカげている、ということらしい(「朝日新聞」、〇六・四・八)。
 私は大すじにおいて知事の考えに賛成する。日本全国の小学生に英語の学習を強制すれば(一週一時間か二時間の授業の)、日本国民が、英語を話すようにはならず、カタカナ語を今よりもっと多用するようになるだろう、と思う。これより先、石原氏はフランス語について、フランス語では数を数えられぬといい、今回は英語について英文法はいいかげんなものだという意味のことを語ったらしい。それはどちらも誤りだが、その理由を説明するまでもないだろう。しかしそのことは、小学校において何よりも日本語力を養うべしという意見の当否と直接には関係しない。
 小学校での英語教育を思いついた人たちは、外国語教育は早く始めた方がよいと考えたのであろう。日本の子供を英語国の小学校に入れれば、忽(たちま)ち英語を流暢(りゅうちょう)に話すようになる。その国に赴任した両親よりもはるかに短い期間に、はるかに正確に英語を話す。
 しかしその場合と、日本の小学校の「英語の時間」とは、条件が全くちがう。日本では学校の「英語の時間」の外部の環境において――学校でも、家庭でも、社会でも、TVでも――、子供の生活は英語を必要としない。したがってそれを習う自覚的動機は弱い。しかるによほど強い動機がなければ、――その強い動機が突然英語国の小学校に入れられた子供にはある――、日本語から英語へなめらかに移行するなどという芸当が少しでもできるはずはない。
 しかし例外を以(もっ)て原則とすることはできない。あえて強制すれば、出口は日本語でも英語でもない、コミュニケーションの手段としてきわめて不便なカタカナ語にもとめる他はなくなるだろう。
   *
 カタカナ語はカッコがよいのではない。英語の強制が生みだす挫折のはけ口であり、うらぶれた、悲しい楽園幻想の結果である。国際化、または国際協調の幻想。現実には自国民相互のコミュニケーションの障害、そしてもちろん感性の質の低下……。(評論家)

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2006年4月19日 (水)

日本医大の前医学部長、へき地の診療所長に

今日の『朝日新聞』朝刊2面の「ひと」欄に、日本医大医学部長を昨春定年退職した麻酔科医の小川龍(おがわ・りょう 66)さんが、志願して新潟県のへき地にある町立診療所長を務めて1年になるという記事が出ていた(2006年4月19日付)のを読み、とても良い話しだと思った。

自らの能力を活かし、しかも、かつて若い人々に求めた奉仕を自らも買って出る。医師というと申し訳ないけれども「仁術よりも算術」といった人々の顔ばかり思い浮かんでしまうが、こういう立派な人もおられるわけだ。

同じような気持ちを持ちながら、踏み切るきっかけや企画・実行力がちょっと足りないという人々もいるのではないだろうか。こういうことをコーディネートするNPOがあっても良いと思う。

【以下は記事の写しです】

(ひと)小川龍さん 日本医大医学部長からへき地の診療所長

 東京都心の日本医科大学医学部長を昨春、定年退職し、山奥の無医地区へやってきて1年。福島県境の新潟県阿賀町立鹿瀬診療所長を務める。
 群馬大学付属病院麻酔科医局員1期生で、日本の麻酔科の開拓者のひとり。日本医大付属病院副院長も務めた。
 日本医大で教えながら、自治医科大学でも非常勤で教えた。10年以上前、卒業生の文集で「学生に『へき地で働け』と言うのなら、教授も定年後はへき地で働いてはどうか」との一文を見つけ、もっともだ、と思い続けた。
 定年が迫った一昨年、へき地はどこか考えた。子供の頃に読んだ鈴木牧之の「北越雪譜」の秋山郷を思い出し、新潟県庁に手紙を書いた。
 「小生のような者でも健康な間、貴県の無医地区でお役に立てないか」。自治医大卒の県職員が目に留め、医師が不在の鹿瀬診療所を紹介。
 東京に妻を残し単身赴任。昨春まではいつも背広姿だった。診療所ではネクタイをつけたことがない。教授として医師100人を率いた頃、眠れぬ夜に酒量が増えたが、「今はストレスゼロです」。阿賀野川のせせらぎを子守歌に熟睡。酒量は減った。
 豪雪のこの冬、雪下ろしで腰や肩を痛めたお年寄りが次々訪れた。手早く局所麻酔薬を打ち、痛みの悪循環を断ち切る。ベテランの技が生きる。「技術を応用できて楽しい。現場が一番ですよ」
 (文・小野智美、写真・丹羽敏通)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月13日 (火)

「森林再生にニート活用」案に一理あり

 日本の山林は、国内材の需要が減ったこともあって間伐が行われなかったり、竹藪になってしまったりと環境、治水、景観、産業としての行き詰まり(第三セクターの赤字累積)などあらゆる面で問題を抱えています。私は、不況が深刻化した時の需要創出策として、政府が間伐などに臨時に雇用を行うことを公共事業として行うことを提言してきました。

 いろいろな業種で「国内材使用」を推奨して森林保護への取り組みをアピールするところが増えたり、自治体には「水源税」を創設して予算を確保しようという動きも見られますが、小池環境相は政治家らしく、「ニート対策」という人目を引く政策と組み合わせた提案をしているようです。

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20051202AT2G0200102122005.html

 たしかに、自然の中で体を動かすことは心身の健全さを回復するためにはふさわしい。「人」を復興し、「森林」を復興し、江戸時代の美しい景観を回復して「日本文化」を復興して国際観光の資源にする。一理あると思います。

  問題点は、為政者が責任持って取り組まなければ、「活用」されるニートと呼ばれる人々が日雇いのアルバイトのように使われるだけで、その後の人生に向けて何かをしっかり身につけたり、安定した居場所を得ることにはならない恐れがあると思われることです。

 やはり、若い人々のためにはしっかりした職業訓練(コミュニケーション能力向上支援)や就労支援に力を入れ、森林再生の担い手には道路工事が旧に減って失業しているやや高齢の建設労働者を想定した方がいいようにも思います。

 まあ、今は雇用数は増えていますから、経済政策としては公共事業による臨時雇用の創出というよりは、空前の企業業績を賃上げにつなげて、内需の好循環を作り出すことの方がテーマとして重要ですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月 2日 (金)

韓国からの修学旅行

 家人が「ワイドショーでこんなのやっていた」と話してくれることがあるのですが、11月28日(月)にフジテレビの「とくダネ!」(8:00~9:55)の9:25頃からのコーナーで、韓国から日本にやってきた修学旅行の密着取材を放送していたそうです。

 ビザ免除の効果もあってか、年間2万人の韓国の生徒たちが日本を訪れているということですが、放送からはとても意味のあることだと感じられたということでした。

 ある子どもは、おじいさんが強い「反日」で竹島問題などでカンカンになっていたそうですが、家族の中でも初めての海外旅行の帰りがけに番組レポーターの「日本はどんな国でしたか」との問いかけに「人々は親切で、とても良い国でした」と答えたそうです。

 ある調子のいい韓国男子高校生は、行く先々で日本の女子修学旅行生に「一緒に写真撮りましょう」と英語で声をかけ、日本の生徒たちも韓流ブームの影響か、嬉々として応じていたそうです。

 民間レベルでの活発な交流に、為政者や産経新聞の論調が水をかけている現状は残念ですが、「とくダネ!」のこの番組については、フジサンケイグループとは言え、さすが小倉智昭さんの番組と高く評価したいと思います。

 コメンテーターのピーコさんも、声を裏返しながら「日本はもっと近現代史をちゃんと教えなきゃダメよ!」と熱く語っていたそうです。

 11月には教育問題を取り上げた回もあり、「児童館」のことなども情報としても興味深く、考えさせる内容だったそうです。ワイドショーにも教育効果があるようです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年9月29日 (木)

乳幼児歯科検診に欠席の家庭訪問を

 少子化問題と言いますが、子どもは年金保険料を払うために生まれてくるわけではありません。財政の事情から少子化対策を言うよりも、生まれてきた子どもたち一人一人を、日本社会のみんなで、もっと大切に育てることが大事ではないですか。

 9月28日付の『朝日新聞』コラム「天声人語」に、子どもの歯を診ると家庭の状況が推察できるが、乳幼児の一斉検診には10数パーセントが欠席するので、そこに家庭訪問する取り組みが紹介されています。

http://www.asahi.com/paper/column20050928.html

 「社会みんなで子育て」と言っても、行政は具体的な課題を与えなければ動きません。このような取り組みに予算を付け、あるいは何らかのガイドラインによって推進することが必要です。

 プライバシーということもあるかもしれませんが、子育て支援のボランティアや必要があれば行政機関との連携も視野に入れ、推進すべき施策の紹介であると思いました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)