日本文化

2008年12月 9日 (火)

加藤周一さんの「源氏物語」論

先週末、加藤周一氏の訃報に接する。森田敬一郎の発言をお読みいただいている方にはおわかりの通り、加藤氏は森田が尊敬もし、足下にも及ぶことはないと知りつつ「こんな人に私はないたい」という、いわば目標であった。

月曜の毎日新聞に渡辺保さんの評伝のようなものが出ていて、あいまいな言語である日本語を使って、徹底的に論理的で、もっとも美しい「文体」の散文を書いた人としていた。

もっとも、無駄をそぎ落とした、美しい文体ということでは加藤さんより渡辺さんの方が上であり、その個性も際だっていると思うのは森田ばかりではないだろう。

世界政治の問題について、森田はたいてい加藤さんと同意見だった。世界の文学については知識に差がありすぎて論評不能。

ひとつ、はじめて目にしたときから「そうかなあ」「加藤さんが言うからそうなのかなあ」と思いつつ、唯一加藤さんと意見が違うかなと思ってきたのが加藤さんの「源氏物語」論だ。小川洋子さんではないが、森田の記憶は加藤さんの本当に書いておられたこととかけ離れたものになつているかもしれないけれど、たしか加藤さんは「源氏物語を世界文学史上の傑作という人がいるけれども、当時の大多数の日本人はたいへん貧しく、飢饉や疫病に苦しんでいた。ごく一握りの恵まれた人々の恋愛ばかり書いて、そうした『世界の問題』に目を向けないこの小説は、少なくとも世界的な傑作などとは言えない」といったようなことを書いておられたように思う。そうかなあ、そうじゃないんじゃないかな‥とずっと思ってきた。

森田は墨子の思想(墨家思想)に傾倒している。孔子の思想(儒教)の人道主義や東アジアの「共通語」になっていることには魅力を感じながらも、その「権威主義」、非論理的な伝統主義には反発を感じる。本質的には墨家の方が儒教よりリベラルだと思う。でも、孔子が音楽をたいへん大切にしているのと対照的に、墨子は音楽など貴族趣味であると退けている。音楽好きの森田が、儒家を捨てて墨家に走るというわけにいかない理由の一つだ。

源氏物語は、人の愚かしさ、おもしろさを抉って深いと思う。加藤さんは「私の文章を曲解するな」と言われるかも知れないが、たった一つ残った加藤さんへの異論だ。

もちろん「核兵器廃絶」「九条の会」のことどもを含め、加藤さんへの共感と感謝の方がはるかに大きい。「源氏物語」論が原因で、加藤さんを否定するつもりなと毛頭ない。むしろ、加藤さんの後を継ぐ、若い知の巨人が現れるまで、われわれで微力を尽くして中継ぎを務めるべく頑張るしかないだろうと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月20日 (火)

調査捕鯨に欧米の批判=ロジカルな発信が必要=

わが国の調査捕鯨について、欧米の批判が強い。CNNの日系人元アンカー、サチ・コト氏が日本のイメージを最も損なったニュースとして安倍晋三氏の政権投げだしと、迷い込んだクジラを助けられず、肉を売るために解体している映像を挙げたことを書いたが、アメリカ国務省のスポークスマンが記者会見で「自制」を促し、オーストラリアは労働党が政権をとったら、海軍の艦艇を派遣して捕鯨を阻止するという話も出ているという。

捕鯨継続が日本の死活問題だとは思わないが、例えば幕末にアメリカが日本に開国を迫った口実が捕鯨船への薪水の供給であり、かつてアメリカをはじめとする国々が、照明用の油をとるためにクジラを乱獲し、資源の枯渇を招いたといった歴史的ないきさつを考えるにつけても、そのアメリカに「捕鯨などとんでもない」と言われると、やれやれ、と思わざるを得ない。

動物虐待は良いことではない。しかし、牛を殺すのは良くて、クジラを殺すのは聖書に書いてあるからダメで、日本人は野蛮だというのでは、一種の人種偏見と言わざるを得ない。

もっとも、ここで感情的な反発を内向させて黙り込んでしまっては、誤解を増幅させるばかりだ。ロジカルに説得する努力を放棄して、既成事実だけを積み上げていこうとする発想は、満州事変後のやり方と同じになってしまう。

ここは、一部クジラの生息数回復が漁業資源の脅威になっているなどの科学的データを、日本政府として国民や海外メディアにいちだんと分かりやすい形で示していく、冷静な作業が必要になるだろう。相手が無茶を言っているにしても、「問答無用」スタイルではなく、親切な説明と対話の路線をとるべきだ。

それにしても、日本と同様に「死刑」を廃止せずに処刑を続け、イラクで何十万人もの人間がテロで殺されるような状況を作っておいて「日本の捕鯨は野蛮だ」などと、本当に暢気なことだ。

そうそう、オーストラリアとは非常に良い関係を構築したらしい安倍晋三前首相には、できるだけ早くオーストラリアに特使で出てもらって、この件で日豪摩擦を火種のうちにしっかり消してきてもらいたい。安倍氏でもひょっとしたらその程度なら日本国民の役に立てるのではないか。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年11月19日 (月)

ダメな政治リーダーって(『朝日新聞』2007年11月15日付33面「もっと知りたい」赤田康和記者署名)

《ネット版に出ていない記事を一点切り抜き。新聞記事チェックはインターネットで済ませる人も多いと聞くが、コラムの充実した『毎日新聞』、経済記事や経済論説は「新自由主義」に偏っているものの、比較的リベラルな『朝日新聞』などは、購読する価値がある新聞だと思いますがね。》

ダメな政治リーダーって(『朝日新聞』2007年11月15日付33面「もっと知りたい」赤田康和記者署名)

 突然辞任した安倍前首相に続き、民主党の小沢代表も「プッツン」して辞任騒ぎを起こした。私たちも日々、上司の予測つかぬ行動に振り回されたり裏切られた思いをしたりする。そこで専門家に聞いた。ダメなリーダーの条件とは。あらかじめ見分ける方法はないのか。

石田英敬氏 記号論】駄目なリーダーとは、論理的な言語能力が低い人だ。政策や演説、説得など民主主義を支える基本は言語能力だからだ。
 だが、日本の政治風土では論理による対話より「情によるインターフェイス(接続)」が重視された。政治家は地方に公共事業をばらまき、有権者とつながってきた。
 90年代以降は、テレビが接続の窓口になった。小泉元首相はぶらさがり取材で素顔を見せ、視聴者と擬似的に「接触」した。つじつまのあわない発言もかえって人気を呼び、論理は軽視された。安倍氏も祖父の話など私的な領域を語った。
 小沢氏は密室のパワーゲームを中途半端にメディアに吐露して失敗した。公の場で論理を積み重ねて説明する能力が低い点は3氏に共通する。
 駄目リーダーにだまされないためには指導者について家族や友人と語り合い、免疫を高めることだ。仏大統領選では国民100人が候補者に次々質問する番組が人気を集めた。日本でも同様に指導者の論理的な言語能力を試すのはどうか。

長谷川真理子氏 進化生物学】サルの群れでは、肉体的に強く、えさの分配や毛繕いで他のオスと巧みに連合関係を作れるオスが最上位になり、欲しいものを食べられる。
 人間の指導者にも似た側面はある。お金を使って配下を増やし、集団のトップに立つ。だが、そんな能力だけでは困る。
 人間は目先の利益でなく将来の目標のために生きられる。リーダーは対話と想像力で他者の痛みを感じられなければダメだ。生を賭しても成し遂げようとするテーマへの執着も人間固有の能力だ。揺るがぬ信条、譲れない大切なものが無ければ指導者として失格だ。
 小沢さんにはそれが見えない。権力を奪取したいのはわかるが、そのためには自分の考えをも変えてしまう人に見える。
 安倍さんは私たちの世代には「本当に強い敵と対決すると、自分を出せない自信がない顔」に見えた。だが、若い世代にはかっこ良く映った。
 言葉に耳を傾けよう。一つのことを強調してわかりやすい言説には注意したい。一面的で、短絡的でないか、見極めたい。

御厨貴氏 政治学】出処進退がきちんとできない人。これは駄目リーダーだ。安倍前首相がそうだった。状況判断能力が的確でない人、意思決定がぶれる人もダメ。
 世論やマスコミを味方にできないのもダメ。小泉さんは世論を友達にした。安倍さんは説明は誠実だが、冗長で面白くない。アピール力がなかった。小沢さんも密室で限られた人を説得するのは得意でも、不特定多数の人に語りかけ、世論を味方にするのは下手だ。
 駄目なリーダーを生まないためには、リーダー候補を早めに皆で選び、切磋琢磨させ、政策論争をさせるのが大事だ。佐藤栄作は田中角栄と福田赳夫に不得意な分野を経験させ、苦労させた。
 駄目指導者を見分けるには一瞬の判断力をみる質問をすることだ。全能力が問われる質問。たとえば「あなたは突然、キレた人に出会いました。どう対処しますか」と尋ねる。SPの陰に隠れるのか、その人物を一喝するのか。答えそのものをうそでごまかすのか。人格が見えてくるはずだ。

今井舞氏 テレビ批評家】最も分かりやすい駄目リーダーは、キャラ(個性)が立っていなく政策も空疎な人。典型は安倍前首相。毎日ぶらさがり取材に応じていたのに、メディアにいじってもらえず言葉の中身もスカスカだった。
 次に駄目なのは、言葉になぜか説得力があっても能力には疑いがある人たち。たとえば、田中真紀子氏。拝聴するほどの意見でもないのに、耳を傾けてしまう「和田アキ子」的存在。でも内実が伴わないカリスマは、いつか破綻する。
 能力はあっても、好感度の低い指導者も駄目リーダー。たとえば小沢氏。いつも不機嫌そうで「理解されなくてもいい」というイジけた感じも漂う。「離婚したい男ナンバー1」の雰囲気。ついていく人がいるのかと不安になる。
 ただ、人気があればいいのか。政治家がタレントと同列に大喜利のネタを求められるような状況は異常だ。「麻生(太郎氏)って面白いよね?」などとノリで評価せず、ブームの理由を冷静に考えないといけない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月19日 (金)

亀戸天神の二株の藤

NHKハイビジョン特集「日本 庭の物語 -江戸大名庭園から未来の庭へ-」を見ていたら、亀戸天神の美事な「藤」は、先の大戦の空襲でいったんは全て焼け落ちてしまったけれども、奇跡的に二株だけが芽を出し、現在の姿に復活した。庭園としてのデザインも広重の「江戸名所図絵」そのままだが、藤も江戸時代のものであるといった話しを紹介していた。

それだけのことと言えばそれだけのことだが、なんだか良い話しだと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月15日 (月)

『源氏物語』千年紀-丸谷才一氏の話しになるほどと思う

10月14日(日)夕方、NHK教育テレビの「日曜フォーラム『一千年目の源氏物語』」を見る。2~3年前に『輝く日の宮』をたいへん楽しく、また感心しながら読ませてもらった丸谷才一氏の話しに再び感心した。

森田は文学に造詣が深い方ではないので、その世界に趣味のある人には当たり前の話しなのかもしれないが、丸谷氏によれば長編小説にとって大事な二つの要素の一つは「構成」で、もうひとつは「文体」だそうで、まあ「文体」というのは表現の魅力というコトだと思うけれども、氏が言うには『源氏物語』はこの二つの両方の要素とも優れており、やはり当時の世界の水準を考えても、たいへん優れた作品であるということだそうだ。

この番組を見るきっかけになった『朝日新聞』文化欄の記事にも紹介されているが、いろいろな理由から、一部国学者を除いて、長い間蔑視されていた『源氏物語』が注目されたのはアーサー・ウェイリーという人の戦前の英訳がきっかけで、それで中央公論から谷崎潤一郎の現代語訳が出て注目が高まったという。丸谷氏は昭和は暗くてやな時代だが、『源氏物語』に光が当たったというのは良かったといったことを言っていた。

これも、日本文化とか日本歴史というものを、国際的な視点において捉え直すと言うことの意味を教えているエピソードだと思う。

番組中の発言の中で、加賀美幸子さんが紫の上の最期のところのさわりを朗読した。さすがの説得力と味わいで、七五調の読み方について自分は自信がなかったけれども、あれでいいのだなどと思いつつ、あの加賀美さんの話を拡大したようなテレビシリーズができないものか、などと思った。

なお、『源氏物語』がほぼ千年前の書物であるという話しは、小渕内閣が2000円札を出した時に聞きかじったが、『紫式部日記』の言及というファクトを基準にすれば2008年が『源氏物語』千年紀だそうだ。去年はモーツァルト生誕250年にすっかり熱中したが、今度は源氏物語か。以前、ちょうど紫の上が亡くなるあたりまで読んだ瀬戸内寂聴訳の続きを読むあたりからはじめましょうか。

(以下、メモ代わりの朝日新聞記事写し)

シンポ「一千年目の源氏物語」「新しさ」ときほぐす

2007年10月10日10時47分

 『源氏物語』の存在が初めて記録に現れてから来年で1000年。この「一千年目の源氏物語」をめぐる講演会とシンポジウム(国文学研究資料館主催、朝日新聞社など後援)が先月、東京都立川市で開かれた。作家の丸谷才一さんが、昭和における源氏の発見や20世紀ヨーロッパのモダニズム文学に通じる先進性について語るなど、聴きごたえがあった。

 『紫式部日記』の寛弘5(1008)年11月1日の条で藤原公任(きんとう)が紫式部にたわむれる場面に、「若紫」「源氏」という言葉が出てくる。このことから、宮中で当時すでに源氏物語が読まれていたと推定される。

 丸谷さんは「暗澹(あんたん)たる昭和に功績があったとすれば長くおとしめられていた源氏を華やかにたたえた時代である点だ」と語った。

 「国文学者を除けば源氏は昭和に至るまで蔑視(べっし)され無視されてきた。皇子(みこ)が天子の后(きさき)と恋仲になって子をなし、その子が帝(みかど)になる筋がけしからん、という非文学的な理由によって。明治最高の目利きである鴎外と漱石も源氏に冷淡だった」

 源氏の発見を促したのは20世紀ヨーロッパのモダニズム文学だという。アーサー・ウェイリーの英訳(1925~33)で、源氏は欧米で『失われた時を求めて』と同じように受け入れられ、読者はプルーストと同じ資質を紫式部に見いだす。ウェイリー訳を国内では正宗白鳥が絶賛し、その影響で谷崎源氏が生まれ、源氏は戦後、日本文学最大の長編小説とされる。

 「源氏には(1)時間を扱う(2)文体の美しさというモダニズム文学に通じる要素があり、千年前の紫式部は現代の読者の心を動かす。小説で大事なのは構成と文体だが、二つを備えた小説はごく少ない。構成と文体について最もよく教えてくれる小説が源氏であり、長編小説の模範だ」

 歌人の岡野弘彦さんは師事した折口信夫の「源氏はいろごのみの道徳を説いた物語」という説を踏まえ、源氏の中で女性が果たす役割についてこう指摘した。

 「源氏は理想的な男性の物語と考えられやすいが、私は女性が多様性をもって生き生きと生きている物語とみる。いろごのみとは理想の異性を選びとることであり、古代からのいろごのみの伝統が平安の華やかな雰囲気を巻き込みながら源氏で新しい展開を見せた」

 たたりをなす六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の造形について「黄泉(よみ)の国を支配したイザナミノミコトに一つの原点を置いてみたい」と指摘したのは興味深かった。

 詩人の大岡信さんが取り上げたのは、第26帖「常夏」などに登場する個性的な脇役の近江の君。粗野で早口で和歌もへただが、憎めない。「道化者的な彼女が登場する個所は長編の中の短編を思わせ、小説全体を引き締める。複雑な構造をもつ源氏は千年の時間差を感じさせず今も新しい」

 NHK番組キャスターの加賀美幸子さんも「源氏は好きな個所から読めば物語がおのずから胸を開いてくれる。出家する女性の多さに着眼するなど、様々な読み方ができる」と語った。

 講演会とシンポジウムの内容を編集した番組が14日午後6時からNHK教育テレビで放映される予定だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月12日 (金)

アイリス・ヤマシタさんが「合作映画」の勧め

クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』の脚本を担当した日系米国人であるアイリス・ヤマシタ氏がパネラーとして参加した「変わりゆく日本のイメージ?-米メディア界で活躍する日系人の見方」という公開シンポジウムを見に行った(10月11日、経団連ホール)

ヤマシタ氏は20世紀のアメリカの映画を含むメディアにおける日本人のイメージの変遷について資料を用いて紹介したが、一般のアメリカ人に日本人や日本文化についての理解を進めるための方策として「合作映画」を作ることを推奨していた。

『硫黄島からの手紙』は第一稿が採用になったという裏話はヤマシタ氏の実力を裏付けるものだったが、初めから「日本人俳優を起用し、日本語で撮影する」というコンセプトを採用していたこの映画が、当初は監督も日本人起用を考えていたのに対し、ヤマシタ氏が「それではほとんど日本映画になってしまう」とアメリカ人監督の起用を主張、イーストウッド氏がメガホンをとることになったという。

たしかに『硫黄島からの手紙』は、「お互い同じ人間で、違うところもあるけれども生活感情はじめ共通することの方が多い」というメッセージを強く発していた良い映画だったと思う。ヤマシタ氏によれば1969年の日米合作映画『トラ・トラ・トラ』でさえ、日本人理解に大いにプラスになったという。そういえば、コックの渥美清が軍艦の厨房で松山省二と日付変更線越えについて論議をしていて「昨日の弾が今日の敵に当たるはずないじゃないか」と言っていた場面など、アメリカ人には受けたのかなとふと思った。

「合作の推進」を国際理解推進の方策とするという提案はたいへん前向きだと思う。そういえば中国残留婦人を取りあげた『純愛』という映画が、東京の若い女性たちに強く支持されたというニュースもあった。

いろいろな分野の映画で国際合作が進むと良いと思う。森田としては西木正明氏の『夢顔さんによろしく』や劇団四季の『異国の丘』の題材となった、1930年代にプリンストン大ゴルフ部キャプテンとして同大チームを全米優勝に導き、上海同文館では単身重慶に乗り込み和平工作に身を投じようとして日本陸軍に阻止され、ついにはシベリア抑留からの帰国直前に亡くなった近衛文麿首相の長男・文隆氏のストーリーなど、「日米中」、または「日米中ロ」合作で見てみたいと思う。

なお、他のパネラーからは「日本にはアジアの他の国との競争に負けてほしくない。世界市民になるためには、Engrish.com(English.comではなく)という日本人の英語の間違いを集めたWEBページにあるような、恥ずかしい英語のレベルを向上させてほしい。中国では小学校1年生から英語が必修だ」という趣旨の発言(サチ・コト氏)もあった。

それを聞いて森田は、それでは一生アメリカの後追いばかりだ。それよりも、アメリカで中国語を勉強する人も増えているので、日本人の必修外国語は「全員英語」ではなく、「3分の一は英語、3分の一は中国語、残り3分の一はスペイン語、アラビア語、韓国語など他の言語」にするといった思い切った手を打つことこそ、現実的な選択ではと思った。

安倍前首相の政権投げ出しも、われわれが想像する以上に日本のイメージを損なったらしいこともパネラーの発言から知ることができた。外務省なども良いところに気がついてこういった事業を後押ししていると思う。日本文化を内在的に理解している「日系人」との良い関係を結んでいければ、日本にとって大きな宝になるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月28日 (金)

時津風部屋の集団暴行致死事件

「『僕いい子になるから迎えに来て』というのを信じてやれなかったのが悔しい」というお父さんのコメントを読むのはつらい。遺品には真っ二つに折られた携帯電話もあったという話しに激しい憤りを感じる。

「伝統」という名の下に悪風を残すことは許されない。「伝統」ということばは、しばしば権威主義、アカウンタビリティー否定の隠れ蓑になる。安倍前政権の下で教育基本法が改訂され、「伝統文化の尊重」が盛り込まれ、さっそく議論が生煮えのまま「武道必修」という方向性が出されているが。

徹底的に膿を出すべきだ。相撲は「国技」を自称し、そう思っている人も多いのだから、相撲が悪しき伝統を墨守するのではなく、あたらしい「よき伝統」をどう作っていくべきかについて、開かれた議論が望まれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)