2008年5月13日 (火)

民主党の「平沼赳夫氏との連携」には賛成できない。

四川省で大規模な地震があり、大きな被害が出ているという。被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げると共に、日本政府も有効な支援に力を尽くしてほしい。

さて、毎日新聞の2008年5月12日(月)付朝刊2面に、「合い言葉は反自民-政界再編へ『野人の会』」という見出しの囲み記事が出ていて、国民新党の綿貫民輔氏と平沼赳夫氏の顔写真が二つ並んで載っている。

週の初めから変なものを見てしまったという気分だ。まずは、第3極なんてものは現段階で国民にとっては不要だ。必要なのは、今の連立与党から、今の野党にスッキリ政権交代が実現することで、アメリカ一辺倒の戦争協力路線と、弱者切り捨ての新自由主義路線からの「転換」を明確にすることだからだ。野党にはそういう旗をまずしっかり立ててもらうことが必要だが。そもそも第3極などというものを必要としているのは、参議院のコントロールを取り戻したい自民党の方だ。

平沼氏というのがそもそも気に入らない。綿貫氏なんて者も前議長として偉そうなこと言っているのがプレーアップされているが、宮沢内閣時の自民党幹事長として政治家としては全く無能であることをさらけ出した「みんなで靖国神社に参拝する会」の神主さんに過ぎない。もっとも、国民新党については亀井久興幹事長がテレビで話していることが党の路線であるとするなら、外交ハト派、マクロ経済重視の保守中道路線と言えるわけだが。

平沼さんは「極右」ですよ。いまの後藤田代議士と故後藤田正晴代議士との関係に似たような血縁関係にあり、義理の祖父になっている戦前の平沼騏一郎首相は、戦前の構図の中でも「右」と言われた人で、米内海相や山本五十六海軍次官が体を張って抵抗した「日独伊三国軍事同盟」を強力に推進しようとしていた首相在任時に、ヒトラーが突然ソ連と不可侵条約を結んだことにパニックを起こし、欧州情勢は「複雑怪奇」とって政権を投げ出してしまったような人だ。

平沼氏のこれまでの言動を見ると、極右体質も、情勢判断能力の欠如も、まさしく「おじいさん」の生き写しだ。以前「民主党の早期問責提出は、麻生太郎内閣への交代の引き金になり、そうすれば中川昭一、安倍晋三らがもれなくついてくる」というようなことを書いたが、平沼氏はイデオロギー的にも、もれなくついてきそうだという点でもこのご一統なのだ。

民主党はこんな平沼氏の選挙に協力するため、同氏の選挙区への候補擁立を見送っている。民主党岡山県連は、昨年当選した変な参議院議員の擁立など、ちょっとおかしいのではないか。

とりとめないこと書いてしまったが、kojitakenという方が書いておられる「きまぐれな日々」というブログの民主党は平沼赳夫一派との連携を模索するな(5/3)、タカ派政治家の劣化(5/12)、平沼赳夫首相」の悪夢(5/13)が参考になると思います。

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2008年5月 7日 (水)

連休中の国際ニュースから

事務所で連休中の国際ニュースをまとめてザッと見る。フランスのフィヨン首相は訪米して英語で講演「フランス風のイントネーションを楽しんでいただきたいと思いまして」。別に「大統領の母」もインタビューに登場しており、就任一年の共同インタビューで国営テレビのニュースキャスターに「どうしてあなたの改革は失敗したのか」といきなり突っ込まれていたサルコジ大統領の盛り上げに必死。

韓国の李明博大統領も支持急落はサルコジ氏の後を追っている感じ。若い有権者が、目先の変わる活気ある「右」の大統領を選べば局面が良くなると錯覚して、政策の方向性が間違っていたり、曖昧だったりする指導者を選ぶと、大いに落胆することになるという例。わが国は同じ轍を踏みたくない。

その韓国のニュースで、「北」が核放棄を印象づけるため寧辺原子炉の「冷却塔」を自分で爆破する準備があるというものに少し驚く。韓国のテレビや新聞は、日本のメディアや官僚から見ると「飛ばしすぎ」らしいが、小渕内閣の頃「韓国メディアは飛ばしすぎ」と役人たちが言っていた羽田-金浦のシャトルはちゃんと飛んでおり、米朝が思いの外進んでホントにならないとは限らないだろう。

胡錦涛主席の非公式晩餐会の松本楼は、日本で革命運動をやっていた孫文を支援していた人の末裔が経営者。餃子、ガス田も大切だが、刹那的にならずに100年の視点を持っていくことも大切だろう。過去100年の前半は日本の侵略が重いが、「欧米列強からの自立」という観点から辛亥革命に協力した日本人もいるのだ。明るい面を掘り起こして、今後の100年を展望したい。

【以下はリンクした胡錦涛首席、孫文、松本楼関係の毎日新聞夕刊記事の貼り付け】

胡・中国主席:来日 日中交流秘史に光 両首脳、東京・日比谷の松本楼で夕食会

 ◇「国父」孫文支えた梅屋庄吉しのび

 福田康夫首相は6日夜、胡錦濤国家主席を東京・日比谷公園内のレストラン「松本楼」に招き、非公式の夕食会を開いた。警備が難しい都心のオアシスをあえて会場に選んだのは、松本楼にまつわる日中近代史の「秘話」に光を当てようという双方の計算があった。

 中国民主主義革命の先駆者で「国父」と呼ばれる孫文(1866~1925年)。その政治活動を物心両面から支えた梅屋庄吉という日本人がいたことは、あまり知られていない。松本楼の経営者は梅屋の末裔(まつえい)にあたる。

 実家が長崎の貿易商だった梅屋は、19世紀末に香港で2歳年上の孫文と知り合い、その革命思想に深く共感する。日本活動写真株式会社(日活の前身)を設立し映画事業で財をなした梅屋は、孫文に多額の資金援助を繰り返した。さらに梅屋夫妻は孫文と宋慶齢との結婚を仲介し、東京・大久保にあった梅屋邸で披露宴を催したという。

 2人の友情は群を抜いていたが、梅屋は「孫文トワレトノ盟約」について「一切口外シテハナラズ」と遺言したため、貴重な資料は長く公開されることがなかった。

 夕食会では、梅屋のひ孫にあたる松本楼常務の小坂文乃さん(40)らが孫文ゆかりの羽織や宋慶齢の手紙などを両首脳に披露した。胡主席にとって、孫文をたたえることは、中国共産党とともに抗日戦線を担った国民党の再評価につながり、現在の台湾で国民党を率いてきた馬英九・次期総統への前向きなメッセージになる。台湾との和解プロセスというわけだ。

 福田首相にとって松本楼は、父・赳夫元首相が三枝夫人と結婚式を挙げた場所。自然な形で日本人が辛亥革命を支援した歴史を振り返り、中国の対日感情に訴えることができるメリットがあった。

 年1回の「10円カレー」で有名な松本楼は1903年、日比谷公園と同時に開業した。松本楼の創業者である小坂梅吉の孫と、梅屋の孫が後に結婚したため、梅屋の資料は小坂家に引き継がれた。小坂さんは「両国のトップにこの歴史を伝えることができて光栄です」と話している。【古賀攻】

毎日新聞 2008年5月7日 東京夕刊

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2008年4月15日 (火)

井出孫六『中国残留邦人』(岩波新書)=広く薦めたい良書=

「中国残留孤児」が大きく報道され、世間の耳目を集めたのは80年代になってからのことだった。たまたま改革開放後の海外留学「一期生」の同じ年の友だちがいたのだが、NHKのテレビ中国語講座などでも活躍していた彼女が、当時はまだ東京オリンピック時代の建物を使っていた代々木のオリンピック記念青少年センターに通い、ボランティアを務めていたのには頭が下がった。

様子を聞くと「森田さん、信じられないかもしれないけれど、私は日本語の通訳というつもりで行ったけれども、あの人たちは中国語の読み書きも不自由なんです」と言われ、驚いたことを思い出す。

満蒙開拓団を一番多く送り出した長野県出身で1931年生まれの井出孫六氏は、自身の子ども時代のふるさとでの見聞から説き起こし、どのような背景、手続きで人々が大陸に送り込まれたのか、またどのような暮らしだったのかに始まり、終戦時の様子はもちろん、肝心なところとして戦後のわが国の保守政権が取り残された人々をどのように扱ったのかがこの本では時系列を追ってていねいに語られる。

どうして中国語の読み書きもできない人がいたのか。なぜ「残留孤児」ではなく、「残留邦人」という用語でなければならないのか。行政の恣意により若い女性だった故に一段と苦労されることになった方々のこと、また岸信介という人が政権に就き、日中関係の正常化をイデオロギーを先行で妨げたことが、残留日本人に「二次災害」と言ってもよい被害をもたらした政治面でのいきさつなどがよく見通せる。

この本は、若い人々が「中国残留邦人」の苦難をたて糸に、戦前戦後を通じての、日本という国家と国民の関係を実態に即して知る上でとても参考になる。神奈川県では知事の肝いりで高校の「日本史」が必修になるそうだが、大化の改新や蒙古襲来ばかり何度も繰り返して勉強していも仕方がないので、教師の方々には、この本を夏休みの課題図書にされることを薦めたい。

政治は「結果」なのだから、「自虐史観だ、いやそちらのは自慰史観だ」などといった観念的な話よりも、この教材で日本政府は戦前、戦後を通じて現実に国民をどのように扱ったのか、またいまは行政や司法でどのように扱っているのか、事実を学ぶことが良いと思う。

神戸地裁の判決が巻末に抄録されている。裁判官の出来映えも、国の運命を左右すると強く感じる。論点が少しそれるかもしれないが、今の時代、裁判の判決文も、個人の住所などは伏せ字にした上で、全文ホームページで閲覧できるようにし、広く国民の批評を受けるようにすることも考えるべきではないかと思った。

ところで、井出さんが三木内閣の井出一太郎官房長官の弟で、村山内閣の井出正一厚生相(さきがけ)の叔父であることは知る人ぞ知ることだろう。しかし、この本には伊東正義外相や新自由クラブの田川誠一代表などの名は見えるが、この問題で著者の働きかけもあって大いに働かれたに違いないこれらの著者の親族についての言及はない。こういう奥ゆかしさには、大いなる魅力というかなつかしさを感じる。

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2008年2月28日 (木)

イージス艦衝突事件=ゴーストップ事件を想起する必要あり。ミサイル防衛システム導入は見直しを=

イージス艦あたごが引き起こした衝突事故に関して、防衛省が捜査に当たる海上保安庁に連絡することなく、艦長を本省にヘリで呼び出して聴き取りを行っていたという。これはシビリアンコントロールにとって分水嶺であり、われわれはゴーストップ事件を想起しつつ厳しく始末にあたらなければならない。

簡単に言えば、自衛隊が市民社会との関係で違法行為を問われたときに警察の管轄下に入るのか、勝手に行動することが許されるかという重大な問題なのだ。

先にも触れたが、自民党の憲法改正案は軍事裁判所の創設を謳っている。今回の事件に当てはめていえば、「事件の捜査には憲兵隊があたり、裁判は軍事裁判所の管轄になるので、海上保安庁は引っ込んでいろ」という状況を作るための改正案だ。

私はそんなことは認めたくない。自民党には改正案の「改正」を望みたいし、そうしないなら、次の総選挙以降、永久に野党になってもらいたい。

防衛省、自衛隊の抜本的なネジの締め直しが必要であることに多くの国民が気づいたわけだが、とりわけ象徴的なのは進めつつある「ミサイル防衛システム」導入の取り扱いだ。

これは、防衛省内でも意見が真っ二つに割れていたと言われている。そもそも本家のアメリカでもクリントン前大統領は、対人地雷禁止条約や全面核実験禁止条約を推進する文脈の中で、一時は国連演説で「配備計画の延期」を表明するなどしていた。

しかしブッシュ政権が誕生し、イラク戦争の下手人でもあるチェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官がミサイル防衛を強力に推進する。わが国でも北朝鮮のミサイル発射や核実験に対する国民世論の沸騰を奇貨として、それに便乗する人々が多くなる。

そう言った中で、防衛省を牛耳った腐敗の権化である守屋前事務次官が強力に推進して配備を決定したのが「ミサイル防衛システム」であり、この巨費を要し、東アジアの核戦略にも微妙、というよりは、はっきり言って核軍備競争を激化させる要因となるシステムの現場を、どういう人々が運用することになつているかと言えば、今回の艦長だの見張り役だのといった人々と同じような人々なのだ。あたごがその尖兵であることは、広く報じられているとおりである。

「全ては艦長である私の責任です」と短いセンテンスで言い切れないエリート自衛官を見て多くの人が感じたと思うが、安倍晋三氏、衛藤征四郎氏あたりが鉦と太鼓で実現した「防衛庁の省昇格」など、きわめてナンセンスなことだった。

もうひとつ言えば、人命が失われた大事件だが、マスコミがこの事件を熱心に報道する一方で、たしかイラク戦争の際、海上自衛隊の幹部自衛官が、大臣にも内閣にも指示を受けていないのに、勝手に米海軍に連絡して「空母の出港時に、海上自衛隊のイージス艦が護衛に当たるよう、米海軍の方から要請してほしい」と頼み込んだといった話にはほとんど反応しなかったのは困ったことだ。

こういう軍人の政治的な動きは、軍艦の操船ミスによる事故などよりも国家の運命に悪影響を与える。

真珠湾攻撃の航空艦隊司令長官の南雲忠一という軍人がいる。この人は「日米交渉妥結の時は断固引き返すべし」という山本五十六連合艦隊司令長官に、「引き返せるわけがない」とタテつく一方で、第二次攻撃を見合わせて米軍の石油備蓄を温存させ、空母を撃ち漏らしている。ミッドウェーでは艦載機を「直ちに発進させるべし」という山口多聞少将の進言を退けて爆弾を魚雷に再びつけかえる作業をさせて大敗を招いた。

しかし森田は、南雲の大罪はそういった軍事面での無能以上に、元老東郷平八郎元帥まで担ぎ出してのロンドン軍縮条約反対運動の先頭に立って旗を振り、日本を愚かな戦争の路線を歩ませるお先棒をかついだことにあると考えている。この点で南雲が断罪されたことはないわけだが、同じようなことがいま繰り返されていないか、われわれは目を光らせる必要がある。

「ミサイル防衛システム」の洗い直し。イージス艦事故をきっかけとしてやるべき仕事の一番であると考える。

それにしても「亡国のイージス」という小説のタイトルを考えた作家は優れた時代感覚をしていると思う。

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2007年11月 2日 (金)

「奇兵隊」の最期-「その時歴史が動いた」エンディング

「その時歴史が動いた」(10月31日、NHK総合22:00~)で「奇兵隊」を取りあげていた。高杉晋作が上海で国際情勢の現実を知ったこと、武士ではない人々によって構成された奇兵隊が第二次長州征伐における幕府軍に対する完勝の立役者だったことなどは学校で習ったり、大河ドラマ『花神』で見た通りだった。

そうかぁ、と軽い衝撃を覚えたのは番組のエピローグで紹介された「その後の奇兵隊」だ。早い話、奇兵隊に集った人々の多くが、維新後の新政府軍整備に反対して挙兵して敗れ、多数が木戸孝允(旧名・桂小五郎)の指揮の下、極刑に処されたというのだ。

家人は「そんなことやってるから鬱病になるんだよ」などと言っていたが、歴史とそれに関わる人のドラマの一面だ。

新しい研究を反映して、巷間言われてきた「善玉・悪玉」に新たな光を当てること、また古代史においても、それ以降の歴史についても「東アジアの国際関係」の視点を重視していることがこの番組の特徴であると思うが、これからも、視聴者にいろいろ発見を提供する番組として続くよう期待したい。

安倍晋三氏も「持ち上げられて落とされた」ということかもしれないが、持ち上げることによって取り返しのつかない過ちの数々に道を開いた人々の断罪は終わっていない。次の総選挙こそ、その機会である。

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2007年10月 2日 (火)

教科書検定による「沖縄戦自決強制否定」-野党多数の参議院は徹底検証と制度の再設計提案を

9月29日(土)に沖縄で、教科書検定で沖縄戦における集団自決において、それが「軍による強制ではなかった」と印象づけられるような書き換えが求められていたことについての抗議大集会が行われ、週明け、町村官房長官が沖縄県民の意を汲んで何らかの措置がとれないか知恵を出すよう指示しているという趣旨の発言をしている。

安倍前政権に象徴される、自民党や官僚組織内部の「『軍』復活」を目論む右派にとって、沖縄戦において「軍」が県民に対してどのような振る舞いをしたかという「現実」は、誠に不都合なものであり、それをできるだけ隠したいということだったのだろうが、それはまず意図をもって真実をねじ曲げるという点で正義にもとり、また体験者や子孫である沖縄の人々に対してはたいへん失礼な話しだ。

官房長官らは、役所に「知恵を出せ」という話しとともに、「教科書会社が自主的に書き換えることを期待する」という姿勢も示している。これはまた別の観点から大問題だ。すなわち、偏った政治的意図を持った政治集団が、匿名で政治行政をねじ曲げて誤った行為を行い、それが露見して正すときに、いきさつも、責任の所在も明らかにせず、「選挙」と「基地対策」目当ての弥縫だけを、他人に仕事を押しつけて行おうとするものだ。

「誤った歴史の書き換え」の中味をもとに戻すとともに、誰がどうやって、どういう理屈と法的正当制の下で作業をしたのかという検証をするとともに、教科書検定制度についての透明性とアカウンタビリティーの保障される方向での制度の再設計を示すことが、参院で多数を占める野党に求められる。

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2007年10月 1日 (月)

足利尊氏、義満、日野富子、そして小泉純一郎-流布イメージと実像

週末、テスト勉強で室町時代に取り組む娘がいることもあってNHK「その時歴史が動いた」の過去の放送録画から「足利尊氏」「足利義満」「日野富子」それぞれの回、3回分を見た。

江戸時代以来、先の終戦まで続いた、実証より「正統性」をめぐるイデオロギーにとらわれた史観の下で「立場をコロコロ変え、後醍醐天皇に弓引いた逆賊・尊氏」「対明勘合貿易の都合とはいえ、日本国王を名乗った逆臣・義満」、「高利貸しと結託し私腹を肥やし、実子を将軍継嗣にするために応仁の乱を起こした悪女・日野富子」と巷間言われ、学校の授業でもそれとそう違う話しを聞くことはなかった3人だが、短いテレビ番組が示す範囲でも、実像は大きく異なるようだ。

執権・北条氏の専横と腐敗を糾し、武士階級の利益を守るために後醍醐天皇の呼びかけに応じた尊氏は、建武政権がイデオロギー的な復古主義にばかり熱中し、武士階級の最大の関心事である領地問題の調整などで全く実務能力に欠ける現実に対し、再び立ち上がった。武士階級の現実の利益を守るという目的意識は一貫していた。「反逆」の原因は、結果を出せなかった建武政権の方にある。

今年放送された3代将軍・義満の話しは一段と興味深い。「贅沢」のイメージで見られる「金閣」は、実は幕府が明国との国交正常化を実現するためにしつらえた舞台であり、国交正常化は遣唐使廃止以来途絶えていた正式国交を回復し、貨幣の不足でデフレ状態だった国内経済を銅銭「永楽銭」の大量輸入で活性化するという明確な目的を持ったものだった。朝貢スタイルや、国王を名乗ることは国粋主義勢力の攻撃を受けるが、明国のスタイルにあわせて「実」をとるための方便に過ぎず、ここにあるのも国益と幕府の利益についての現実的な感覚だ。

よいイメージのなかった日野富子も、応仁の乱は夫である8代将軍足利義政がわがままで引退を急いで弟の義視を後継指名し、乱の中でその弟に裏切られるといった当事者能力の欠如にこそ原因があるので、実際は受け身の立場だったという。「高利貸しと結びついて私腹を肥やした」と言うのも、見方によっては「税源を、貨幣経済の発展で新たに勢力を大きくした金融業への課税に求めた」と言い換えることができ、実際に資金力は朝廷や幕府の修理事業に用いて幕府の求心力回復に成功し、貧民救済にも使って庶民対策もした。将軍家の財政再建を導き、それを政治的にも賢明に使ったと言えるのだ。

夫・義政の周辺に集まる文化人たちは、カネを無心してもなかなかくれない富子を「春の日」(=なかなか暮れない)と皮肉ったというが、大衆の困窮を無視し、文化と趣味の世界に生きる夫とその周辺と対照的に、富子は政治・経済の現実を見つめ、それに適切に対処する素晴らしい政治家だったのかもしれない。

江戸時代の田沼意次も、失脚後に宣伝上手の松平定信にいいように言われてしまったことが今日に至るまでのイメージの元になっているという。逆に、織田信長などは巷間言われるような優れた指導者ではないということを書いた本が週末の『朝日新聞』の書評欄に出ていた。

最近では、小泉純一郎という個性的な政治家が出て、竹中平蔵といった人とともに何だか善玉イメージで受け止められたままになっている。彼らに「抵抗勢力」のレッテルを貼られた人々にも逆の意味で同じようなことが言える。白か黒かという話しではないが、「巷間伝わるイメージ」とは別に、現実に残したことは何なのかということに力点を置いた実証が必要なのではないか。

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